前回の記事では、はっきり確かめられる知識にしか目を向けないことによって忘れられがちな、人間の日々の内面のことから宇宙に対する思索的な関心まで、細々とであっても思索を活かし、続けていくことこそ、「哲学をする」ということではないか、ということを記しました。
- これまでの連載記事 -
「細々とであっても思索を活かし、続けていく」とは?
これまでの「哲学とは何か」という一連の記事を通じて、バートランド・ラッセルの『哲学入門』から多く引用、参照してきました。
言わずもがなですが、これは、ラッセルの見解を絶対視して、「哲学とはこういうものだ!」と押し付けるような意味合いはありません。
実際に、他の哲学者たちの著作やその概説書、「哲学とは何か」みたいな新書類の本をお読みいただくと分かりますが、「哲学とは何か」ということについて、いろいろな形で示されています。そのどれも「なるほど」とうなずかされるものがあります。
その上で、哲学ビギナー(私もまだまだですので、含まれますが)にとって、ラッセルの主張は比較的イメージのつきやすい、理解のしやすい内容なのではないか、ということでラッセルの『哲学入門』を多用している次第です。
では、話を戻して、「細々とであっても思索を活かし、続けていくこと」とはどういうことでしょうか。
一人孤高に、思索を深めていくということでしょうか。そうではないと思います。
ラッセルも言っていますが、問いそのものを目的として哲学を学ぶことは、「多面的な考察から心を閉ざしてしまう独断的な確信を減らす」ことだとしています。
つまり、一人孤高に考えることではないのです。
では、「多面的な考察から心を閉ざしてしまう」ことを防ぐにはどうすればよいのでしょうか。それこそが、他でもない「問題の共有」ということなのです。
哲学者と共に「自分」を読み解くひととき
「問題の共有」とは、人生の根幹にかかわる問題を共有し、お互いに思ったことをシェアすることかと思います。
では、「人生の根幹にかかわる問題を共有し、お互いに思ったことをシェアする」あり方とは何でしょうか。
先にも記したように、そのような大切で基本的な問題について、多くの哲学者・思想家たちがそれぞれに思索し、苦しみ悶えながらそれぞれに哲学書・思想書を表してきたのです。
そういう著作を、一緒に丁寧に読んでいくことがあると考えています。
そういう著作を、一緒に丁寧に読んでいくことがあると考えています。
哲学・思想を知ることもさることながら、自分自身についての気づきを得て、今後の自分を築いていくためには、哲学・思想の現場である哲学書・思想書を共に読んでいき、そこで論じられている問題を共有していくことは、意義深く有用なことであると私は確信しています。
では、私がこのIn-Studiumで、どのようにして「人生の根幹にかかわる問題を共有し、お互いに思ったことをシェアする」場を築こうとしているのか。
それは、次回の記事でご案内させていただきます。
(つづく)
*Written by A.KOBAYASHI
*Written by A.KOBAYASHI